起きるという行為
起きるという行為。これは不思議な行為である。
寝ている行為から目が覚め、体を起こす行為がまさに
「起きる」
ということとなる。
「起きる」という行為は、自然に「目が覚める」という行為とは関係なく、自らの意志とかかわっている。
朝が来ても、布団やベッドの中であと数分は寝ていたいと思い、その誘惑にかられることが多い。
目覚まし時計をセットしても、何度も止めて時間通りに起きることがない。
起きるという行為、これは人間の自由な意志であり、自分との闘いでもある。
克己の実績
例えば朝の6時に起きようと決めて、目覚ましをかけて、夜就寝する。
その時間に起きるかどうかは、自らの意思にかかわっている。
さてもし一時間早く起きなければならない事情が生じたらどうだろうか。
たとえば海外出張などで早く家を出なければならない。そうなると朝の5時に起きようという強い意志が必要になるだろう。仕事だからという外的な因子によって否が応でも起きなければならない。
しかし、明日は朝5時に趣味の読書でもして、朝を過ごそうとする。するとそこにはやや自由度があって、必ずしも5時でなくてもいい。
そうなると、5時を過ぎて、もしかしたら5時30分に起床するかもしれない。別に5時に起きなくてもいいわけだから。
起床は自分が決断したことを「起きる」という行為に移行していかなければならない行為の移行であるるともいえる。
決めたことを実行する。もしそれができたら、
「克己」
つまり己に克つ(勝つ)こととなるであろう。
自分の怠けている心に「勝つ」のである。
起という漢字
朝の早朝起床することは、自らの怠惰に打ち勝つことである。そうすることで一日の始まりに自信を与えてくれる魔法の行為でもある。
些細な「起きる」という単純な行為は、時間どり起きることで一つの実績を作ってくれる。
起きるという行為は、人が横になっているか、仰向けになっている状態から、力を入れて上体(上半身)を起こす行為である。これはほかの言葉でいうならば、「起き上がる」という言葉に置き換えることができる。
自分の上体を起こすには、そこには「力」がいる。夜中、体を休ませ力を入れずにいた状態から、今度は力を入れるという過程に入るのである。
それには「意思」が必要となる。目を覚ますこととはやや異なる。
目を覚ますのは生理的なものだ。しかし、
「起きる」のは自分の意思であり、主体的なのである。眠っていたいという心との闘いでもある。
起きるという「起」という漢字を見る。するとそこには、走と己という漢字が合成されている。「走」は立ち上げる、始めるという意味がある。己を立ち上げる、己を始めさせる。これが起きるということであろう。
人が立ち上がるという行為を形象化したものといえよう。
自信をつける
起床は自己が主体となって立ち上がるということとなる。
起床のほかに、「起」を用いた単語には、起業、起稿、決起などという言葉が「起」を使って表現される。
いずれも自らが主体的に、自らを鼓舞して、行動するという意味が含まれている。
そのような行為を通して、我々は自信というパワーをもつことができる。
「起」という行為、起きるという行為を通して、朝の「克己」という実績につながるのである。
そこから、自分への「自信」も生まれる。
早く起きることで、自らに自信をつけさせる。
早朝起きるということは、単に朝起きて活動するということにどどまらない。
自分が一日の始まりを、起きるという行為を通して、怠惰な自分に打ち勝ったという実績をもつためでもある。
早く起きることで、一日の始まりに自信をもって出発することができる。
「一日の計は朝にあり、一年の計は元旦にあり」といえるように
何事もスタートが肝心であると思う。
明日は何時に起きようかな。
コメント