私は現在韓国に住んでいる。
そこで日本人と韓国人の違いを感じることの一つは、「オト(音)」への敏感さだと思ったことがある。
私は個人的に「音」に敏感なのかもしれない。それでも、韓国は普段日常生活でよく耳にする「音」に関してはけっこう寛容だなと思うことがある。
カフェや食堂でも大きな声で話していたり、車の蔵クッションの音、電車の案内放送、家の騒音などの大きさは、日本に比べて大きいと感じている。
そこには私個人の感じ方もあるかもしれないが、日本人は音に敏感かもしれないと思い始めた。いや音だけではない、もしかしたら、聴覚、視覚、味覚、触覚などの感覚から始まり、「脳」に伝わる刺激が、他の国の人の感覚と異なることがあるのかもしれないと思い始めたのだ。
日本人の直観力
『直観力』という書籍で、日本人の脳について興味深い引用(角田忠信『日本人の脳』をしていた。
それは、脳の左半球つまり優位脳で、日本人は無視の声を聴き分けている。この左半球は論理的機能を司っているというものだ。
そのことを参考にすると、日本人はより感覚的な虫や自然の音を、論理的な脳の機能でとらえていることとなる。
逆に、西洋人はこれらの、虫や自然の音を右半球つまり劣位脳で判断している。この右半球はより直観的なものを把握する機能があるが、西洋人は日本人と異なり、虫や自然の音を感覚的、直観的に判別している。
別の言い方をすれば、日本人が虫を声を言葉に表すことを、論理的に表したり、表現したりできる反面、西洋ではそれが難しい。
日本人は自然の音を、心地よく受け止めながら、それを芸術世界や文学に表現できる能力と言語を持ち合わせているということともいえよう。
確かに、日本人は自然の音を’気持ちよい’と感じる傾向がある。そして雨、風、セミの声、鈴虫などの森羅万象の「オト」と一体になろうとする性質があるとはよくいわれることだ。
それは、結局日本人が五感が敏感であるということという意味になるのだろうか。
「歩くこと」と自然観察
さて「歩く」ということは、結局「自然」に触れることになる。散歩と自然はある意味セットだ。
そして「歩く」という行為と同時に「自然」を観察している自らを発見するだろう。
さきの『直観力』を参考にすつつ、自然の音を論理的な機能で把握しているのなら、「歩く」ことで「脳」の論理思考は活性化されるということとなる。
この「歩く」という行為は、「脳」の論理的思考をより高い次元に高めてくれる。これが、日本人の「ひらめき」や「アイデア」を生むきっかけになるのではないか。
つまり、論理的に整理されつつ、仕事や生活に必要な「アイデア」を生み出すというプロセスである。
しかし、それだけはない。ここに日々我々が使用する言語にも焦点を当てることは興味深いのである。
日本語の自由度
『直観力』ではこの日本人の直観は「日本語」という言語の特質から受ける影響が大きいという。特に、日本語は英語などの外国語とことなり、主述関係が自由であること、漢字かな交じりであること、そして造語ができやすいということをあげている。
このような言語の自由度が、日本人をクリエイティブにさせ、そして直観やアイデアを生みやすくしているとみている。
日本人を直観的な活動に向かわせる要素の一つとして、この「日本語の構造」にあるのだろうか。
これを古来から「言霊」という言葉で表してきたことが、一つの示唆を与える。
言葉の霊性ともいえるかもしれない。
言葉の霊性つまり「言霊」と「ひらめき」という観点から考えると、非常に呪術的である。
しかし、こうした自然とのかかわりあい、自然の音を聞き分ける力は、「脳」の論理的な世界から把握しているということから考えると、自然に触れながら言葉で思考できる力が日本人には備わっているのかもしれない。
それが日々の「直観」や「ひらめき」という作用として効果を発揮してくれるとも見れる。
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