散歩の効果として優れているものの一つとして、「ひらめき」の効果が挙げられる。
私は歩くことを率先して続けているのは、単に運動だけのためではない。
運動は二の次のところが多く、第一に目的には、実は「思索」にある。それが散歩を続けている目的であるといっても過言ではない。なぜなら思索によって得られる効果を体験しているということもあるからだ。
数年前であるが、大学院に通っていたころ、忙しい合間をぬってでも、日課であった散歩を続けていた。朝はもちろんのこと、図書館で勉強の合間を散歩に充てていた。
少しでも体を動かすことは、勉強の合間のリフレッシュにはなるという思いからでもある。ただ、論文を書くためには、どうしても自分の頭で考えるという「思索」が必要であることはわかっていた。
研究のためには、資料や本を読みこなすだけではいけない。考える時間、そして「思索」する時間も必要であると気づいた。
そしてそれを常に実行していった。時間があれば「歩く」ことを。
何かを考え、新しいアイデアを生み出すためには、歩くことでカバーすることができたという実感があった。。
つまり、散歩をすることでずいぶん論文の進行ははかどったという実感である。
さて「ひらめき」は「アイデア」または「インスピレーション」とも言い換えることができるだろう。
ただこれらは、我々が日常生活で普段、生きて生活していれば、いつでもどこでも起こりうるものであるとは思われる。
そこで、散歩の代わりに、通勤、通学の行き帰りで歩行することでも、十分ではないかと思われるかもしれない。わざわざ散歩をする必要などあるものかと。
しかし、これは「こころ」の問題と密接にかかわっている。つまり、通勤通学の時間は、どうしても時間に追われている自分がいる。心に余裕がない。
何時までに会社・学校に到着しなければならない。
実はそこには「思索」という性格を見出すことはできない。
散歩をすることは、ある意味空白の時間を作ることともいえる。極力スマホももたないほうがいい。
とにかく、「歩く」ことに集中し、木々の中や自然の中を歩くこと。
「思索」をするには
時間的な余裕や
「ひとりの時間」が必要である。
つまり、自分に没頭する、自分の心と対話する時間と言い換えることができる。
辺りは自然の景色と空しかない。目に入ってくる環境も非常に重要だ。
ビルの中や電車の中では思索の力は減少する。
人はやはり視覚による影響は無視できない。それによって気分も変わる。
ある研究によれば、運動は室内よりは室外の方が、気分的にもそうだが、健康にも室外での運動がいいという報告がある。
もやもやしていたり、苦しいことがあるときは、室外に出て「歩く」ことや「旅」にでることだ。
そうすることがで、気持ちも晴れてくる。心も安定してくるはずだ。
今まで気づかなかったことが新しく「ひらめいてくる」ことがある。
歩くことは実は、頭の働きと直結している。頭を働かせる、脳を活性化させるためには
足を動かす、歩くこと、散歩にでることだ。
そしてなるべく、「朝」「早朝」を散歩の時間に充てること。
そうすると、朝の冴えた頭と足の歩行という二重の行動によって、我々の生活に必要な「ひらめき」や「アイデア」は生まれてくると思う。それが仕事、生活、勉強の源泉になる。
朝の散歩は一日、一週間、これからの100年時代を生きる我々の生きる力となっていくことになる。
それは新しい「ひらめき」によってさらなる、「いきがい」「意欲」をもたらすと思われる。
「ひらめき」をもとめて、自然の中を歩いてみよう!
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