江戸時代の国学者本居宣長は「もののあはれ」という文芸論を主張したことで知られている。彼は『源氏物語』の心の世界を評して、「もの」に触れて「あはれ」と感動する世界があると述べた。
「もの」という外界の世界に触れること、つまり見ること、聞くこと、触れることによって感動する人間こそ、本来の人間の姿つまり「真心(まごころ)のある人」であると主張した。
国学者、宣長(のりなが)は多くの書物や研究の業績を残した学者だから、一見家の中のとじこもって書物を読みふけり、書物を書いて過ごしていたという印象はあるかもしれない。きっと書斎で過ごした時間が長かったという先入観をもつ人も多いと思われる。
多くの古典を読みこなしながら、結局そこからの発見が「もののあはれ」という文芸論に至ったという見方もあろう。
しかし、彼は一日中歩いた。実は「歩く人」でもあった。日中はほとんど歩く時間に費やしていたのだ。
彼は街の医者である。小児科の医者で、松阪の地をくまなく問診するために、かなりの距離を歩いていたことがわかっている。そんな中、きっと松阪や伊勢地方の自然、街並み、四季の移ろい、山や川を見続けていたに違いない。青年期は京都にも留学していろいろなものを経験、思索している。
彼の文芸論はまさに、そのような”見るもの、聞くもの、触れるもの”という経験や外界からの刺激、そこからきているのではないか。つまり、外界の世界でであった「もの」に触れて「あはれ」と感じる心の世界。それを「まごころ」ともいった。
「歩くこと」で、外界の「もの」に触れて感じる心の世界の貴さを悟ったのではないか。
さらに触れることで、「あはれ」つまり心も晴れるという、現代風の言葉でいえば、ストレスの解消ともいえるだろうか。
景色の変化や四季の移ろいを観察がもたらす心の感動がある。家の中にこもる時間と同時に、人は外界の世界に触れることも大切だ。
それは視覚という機能がもたらす人間の構造にある。例えば初対面などで他人を判断するのは、その人の外見の80%を占めるという。つまり見た目がその人に対する評価となる。
アイデアやひらめきは、時には歩いているときにふと起こるものではないだろうか。もちろん家の中でじっと考えたり、物事を洞察することでアイデアが浮かんでくることもあろう。
内にいる時間と外にいる時間のバランスが大切だ。だから家の中の環境づくりにも気をつかうことは脳の活性化を助けてくれる。
散歩に関しては歩くコースもときどき変えてみることだ。それによって景色や環境が変わる。そこから新しい風景や景色に出会う。景色も時間帯によって異なる。
我々は色々な景色に出会うことで、心が動かされ、そしてそれによって新しいアイデアにつながっていくきっかけとなると思う。
「もの」に触れて、「あはれ」と感じるとき、新しいアイデアや発見、そしてストレスも解消されると思う。
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