ユダヤ教には、何事にも適度なことが必要だと教えられているようだ。
私は最近タルムードの解説書を読んだ。
その中で、「川」のたとえ話があった。
川は水かさが少なければ、水不足で人の生活に影響をあたえる。また干ばつの恐れもある。
逆に水かさが増えて、洪水となれば、大きな災害につながてしまう。
そういえば、日本も「川」が多いせいか、川に関することわざや伝承が多い。
「川」を見ることで、先人たちもそこから何かを悟ったのだろうか。
ユダヤ教でも「川」は人生の縮図のように解釈しているようだ。
つまり、適当な水の量が流れていなければならない。
それは、私たちの人生に譬えられる。
たとえば、仕事。
仕事は一生懸命すること。という固定観念があるが、はたしてほんとに仕事は一生懸命するもの
なのだろうか。手を抜いてしまってはいけないのだろうか。
仕事だけの人生。休みもなく働くこと。
これがかなり美徳のようになっている。
しかし、それも適度な休みを入れたり、たまには失敗もしてみる。
そして、それを素直に受け止めてみるのはどうか。
失敗をする自分の姿を受け止める。
最近私は仕事の失敗をした。いつもなら気が動転していたこともあった。
しかし
今回は、こんなこともあると、けっこう平然にこなしていった。
もしかしたら、私に対する評価は下がるかもしれない。
ただ、そんなことで一喜一憂したくはない。
ユダヤ教の教えに「お金」の話しもある。
お金。だれしもがほしい。
しかし、これも
適度な所有があって、初めて使い道が出てくるという。
もちろん、まったくない、いわゆる清貧のようなことは避けているようだ。
つまり、適度に「お金」はあることにこしたことはない。
しかし、お金だけに執着するのも、つまらない。いや
お金がたくさんあったところで、幸せになるかというとそうでもない。
お酒もそうだ。
適度は必要だ。しかし飲み過ぎはよくない。
過ぎることは何でもよくない。
運動にしろ、勉強にしろ、恋愛にしろ。
聖職者は一生独身を貫く。しかし
ユダヤ教は違う。結婚を奨励する。
生涯をともにする伴侶をもとめる
これは人間なら自然な行為だ。
結婚、恋愛、は相手と適度に愛情を交わし合う。
それが人間の姿だから。
愛し愛されること。
しかしこれも、自分の欲望のまま異性を求めることは不道徳だ。
愛情も適当な分別が必要だ。
それをコントロールすることで
良きパートナーと
愛情を分かち合うことができる。
子供が生まれる。
しかし
子供を愛するのは、当然のことだ。
そして、親としての子への愛情は無条件だ。
それでも、あまりにも子供にべったり寄り添ってしまうと、
子供は親離れしなくなる。
親が子離れしなければならない。
子供の独立のためだ。
親の愛情も
適度が必要だ。
何事も適度が必要だ。
ブログを書くのもこのくらいにして
休みことにした。
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